里親制度の先駆者  石井十次と渡辺亀吉

  最近映画にもなり注目されている石井十次とその同労者渡辺亀吉について、クリスチャン

   の里親としての立場から考えてみました。

 

     T    石井十次

 

1.石井十次は、一八六五年宮崎県に生まれ、一九一四年天に召された。岡山で孤児院を開き、ある時期には千二百人もの孤児を受け入れるなど、日本の社会事業の先駆者、パイオニアとして、非常に高い評価を受けているキリスト者である。十次が千二百人もの孤児を受け入れる孤児院をどうして経営することができたか。百年以上も前の日本で社会事業をするのは、お金持ちの慈善家だからだろうと思われるかもしれない。しかし孤児院を経営するため潤沢な資金があったどころか、むしろ貧困に苦しんでいた岡山の医学校の学生時代に、孤児院の経営をはじめたのである。それは医学校での勉学を終了していたにもかかわらず、卒業試験に失敗し、彼のほうこそ助けを必要としていた時期であった。まだ父親のすねをかじっている状態である。それにもかかわらず、このような状況の時に、孤児を引き取り、孤児を養い、そしてこの働きは一時はなんと千二百人もの孤児を受け入れる孤児院へと発展していく。十次が、社会事業家としても、キリスト者としても、尊敬し、目標にしていたジョージ・ミュラーは、2千人の孤児を受け入れる施設をつくるのだが、社会事業の後進国である日本で行われたことであることを考慮するなら、十次の働きは、ジョージ・ミュラーに優るものであったとさえ言えるかもしれない。しかし十次の事業は、けして単純に成功したとは言えない。彼は高邁な理想に向かって進んだ。岡山の孤児院は、非常に高い評価を社会から受けた。十次が亡くなる間際には、皇室から正七位の位階を贈られた。彼が行ったことは孤児を助けることで、政治や実業や学問の分野などで華々しい活躍をしたのではないのにこのような名誉を贈られたということが、十次の受けた評価の高さを物語っている。しかし十次にとって彼の生涯は、理想とは程遠かったのではないだろうか。むしろ彼は、常にまだこれでは不十分だ、まだ理想からは程遠いと、耐えず高い目標を見続けていた。彼の信仰の原点は、ピリピ人への手紙三章八節ではないだろうか。  それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのこと を損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っていま す。

十次はキリストのすばらしさのゆえにすべてを捨てようとする。ただ神にのみ頼っていこうとする。しかしどうもうまくいかない。どうしたら神にのみ頼って生きていけるのだろうか。それは彼にとって、ミュラー主義で生きることであった。彼はジョージ・ミュラーのようにやっていこうと思う。けれどもどうもうまくいかない。そういうもどかしさの中で生きていたのである。もちろんこれは私たちのような平凡なキリスト者にも当てはまることだろう。私たちも神にのみ頼って生きていこうとしても、失敗しがちである。そういう私たちにとって、十次は、その行った事業からは巨人ではあるが、その信仰は、私たちに身近である。

 

2.十次はどのようにしてキリスト者となったのだろうか。

 十五歳の時、十次は、無実の罪で捕らえられる夢を見る。その夢の中で「お前は無罪放免になる」という不思議な声を聞いて目をさます。ところがその日友人と酒を飲んで、時の権力者岩倉右大臣を殺すべきだと大声で叫んで逮捕され、二ヶ月後に無罪放免になる。この体験から十次は、神の存在に畏敬の念を抱くようになったという。後にも彼はこのような不思議な体験を幾度もするようになる。

 十七歳で病気になったとき、治療をした医師からキリスト者になるように、また医者になるように勧められたらしい。この病気がなんであったかは不明である。しかし後に、彼が脳病と呼んだ頭痛に悩まされたり、また神の啓示のような不思議な体験をするなどから、梅毒にかかっていたのではないかと断定する十次研究者の医者がいる。どうも十次は若いときには、かなり放埒な生活をしていたらしいことがうかがわれる。はっきりしたことは分からないが、遊蕩児だったようだ。つまり悪い遊びの結果性病にかかり、治療にあたったキリスト者の医者から、遊蕩生活をやめ、信仰を持ってまじめに生きなさいなどとさとされたのではないだろうか。一方十次も、その諭しに納得し、これまでの自堕落な生活を改め、キリスト者となり、また医者になろうと決心して岡山の医学校に入学する。

 岡山教会で受洗したのは十九歳の時である。その頃の十次は、優秀な成績を収めながら、貧しいために上級の学校へ進学できない少年たちに奨学金を与える教育会をつくるのだが、元々お金がないのに、いっぺんに三人の子どもたちに奨学金を与えようとして失敗し、多額の借金をし、見かねた医学校の校長が、自分の家に居候させるなど、四苦八苦の生活に陥り、医学部卒業試験に失敗してしまう。ところがこの頃、彼の信仰と後の事業に決定的な影響を与えることになるあるキリスト者のことを知る。そのキリスト者とは、ジョージ・ミュラーである。

 

3.ジョージ・ミュラーは、一八〇五年ドイツに生まれた。父に甘やかされて育った結果、放蕩生活を過ごすようになり、詐欺罪で牢獄に送られたりした。父は彼の将来を不安に思い、安定した職業につけようと、ハレ大学の神学部に送り、牧師にしようとする。神学部在学中に彼は、救われたキリスト者の群れと出会い、神の恵みとしか表現しえない生まれ変わったキリスト者となる。この結果彼は形式的な職業としての牧師の道を拒否し、海外宣教の道を模索して、英国に渡り、そこで集会の働きに参加することになった。一八三二年からブリストルでクレークとともに集会を行い、一八三四年に聖書知識協会を設立し、宣教の働きを行った。この協会の働きの一部に、孤児救済があった。孤児救済は、お金がかかるだけで、なんの儲けもない働きである。つまり資金がなければできないことであるのに、神以外にはなんの後ろ盾もないジョージ・ミュラーがなぜ行おうとしたのだろうか。それは、神が裕福で物惜しみをされない方であることを証明しようとしたからである。これは、キリスト者でない人にとって愚かであり、キリスト者にとっても現実離れした狂信かもしれない。しかし彼は、神が裕福で物惜しみをされない方であることを事実として経験していたのであり、このすばらしい事実を、多くの人々に証したいと願ったのである。父や母のいない子どもたちや貧しい子どもたちの状況を憂えて、子どもたちのためになにかしてあげたいと思っても、いったい何ができるのかというと、なにもできない。しかし彼には、神を信じる信仰がある。そしてミュラーの信じている神は、裕福で物惜しみをされない方である。だから神に信頼して、孤児救済の働きを行い、これによって神がミュラーの信じているとおりの方であることを証しできれば、それはミュラーの信じるイエス・キリストの父なる神が、現実に生きておられるという力強い宣教の働きでもある。

 彼は孤児院を設立する三つの理由をあげている。

1 神が必要な費用を備えて下さる方法によって、神に頼ることが無益でないことを世に証明し、神の栄光を現すこと。

2 父母を失った子どもたちの霊的な向上を推進させること。

3 彼らの日ごとの必要を満たすこと。

ミュラーの伝記を書いたピアソンは言う、「もし彼がーひとりの貧しい人間がー人には求めず、ただ神にだけ求め、必要が満たされて孤児院を経営していくことができたなら、人々は、神が今なお約束に忠実で、今もなお祈りを聞き届けられるということをはっきりと知るだろう。」これがミュラーの孤児院経営の第一の目的だったのである。私たちは、貧しくその日の暮らしもカツカツだというのに、それにもかかわらず多くの孤児を助けてあげていると、なんと気持ちの優しい人だろうと思う。かわいそうな孤児たちのためにがんばる慈善家だろうと思う。ところがジョージ・ミュラーは、優しい人間だったから孤児たちを助けたのではなかった。彼にとっては孤児は第一ではなかった。もちろん孤児を助けるために孤児院を建てるのだが、孤児を助けるのは彼の仕事ではなく、神である。そしてこのことを証明するために孤児院を建てるのが、彼の孤児のための働きなのである。

 一八七五年、七〇歳になってから、ジョージ・ミュラーは、世界中への宣教旅行を一七年間にわたって行い、一八八六年末に来日する。十次が、彼によってどのような決定的な影響を受けることになるかを語る前に、一つのエピソードを紹介しよう。 

  ジョージ・ミュラーは、しばしば激しい頭痛に悩まされ、いくども静養しなければならなかった。これは十次と同様若いときの放蕩生活のもたらした性病だったのだろうか。はっきりとしたことは分からないが、このようなところにも十次とミュラーの信仰や働きに共通点があることを感じてしまう。

 

4.十次は、ジョージ・ミュラーの説教を直接聞くことができなかったが、来日に際してのジョージ・ミュラーの紹介の記事などを読んだ。そして彼の信仰と事業について聞き、聖書を神のことばとして信じ従う生き方に感銘を受けた。これこそ真の信仰である、自分もこのような信仰で生きていこうと思った。すでに十次はキリスト者として洗礼を受けていたが、ジョージ・ミュラーによってはじめて、神のことばを信じ従っていくなら、ただ神を仰ぎ見ていくなら、神は今も生きておられるのだから、神が私たちを導き助け祝福して下さるという信仰を知ったのである。神を信じるなら神は2千人の孤児でも養うことを、ミュラーは実証していたのである。この信仰の証しを知って、十次は孤児救済を、ただ神にのみ頼って行おうとする。当時彼は医者になろうとしていた。医者になって、生活の基盤をしっかりさせてから、孤児のために働こうと考えていた。生活の基盤があってこそ社会事業を行えるのではないだろうか。また十次が医者になることを期待している郷里の父や母を裏切りたくないという気持ちもあった。しかも医学校はすでに卒業し、あとは卒業試験に合格しさえすれば医者になれる。だからまず医者になることが常識的な生き方だろう。しかしジョージ・ミュラーを知ってからは、十次ははたして医者になる必要があるのだろうかと考え始めた。医者であることに頼るのではなく、神にのみ頼ることこそキリスト者として生きることではないだろうか。そして神にのみ頼って始めて孤児のために働くことができるのではないだろうか。つまり彼が医者になり、豊になって、孤児のためにお金をだしてあげて孤児を助けるのでは、その孤児院の働きは、慈善家としての十次のすばらしい働きではあっても、神の働きではない。彼が孤児を助けるのではなく、神が孤児を養う神の働きをしたい。ミュラーのように、豊かで物惜しみをされない神を信頼したい。だったら医者になる必要があるだろうか。医者になる必要がないどころか、医者になっては、神にすべてを任せていないことになるのだから、医者になってはいけないと決心して、十次は自分の持っていた医学書を焼き払ってしまう。彼は、こういう極端なことをすぐにやってしまう行動の人である。思い立つとすぐに行動に移ってしまう。じっととどまって主の導きを待とうとしない。ジョージ・ミュラーがすばらしいと思うとすぐにジョージ・ミュラーのように生きようとする。医者にならない方がよいとなると、もう医者になれないように医学書を焼き払い、神にのみ頼っていることをその行動で示そうとする。彼はマルタのようである。マリアはじっと座っているが、マルタはせっかちに動き回る。この二人の姉妹の兄弟ラザロが死んで四日目になってようやくイエスは姉妹たちのところへ来る。するとマルタはイエスを迎えに行くが、マリアは家で座っている。ところがマリアはイエスが呼んでいると聞くとすぐにイエスのところへ行く。動き回るマルタと、呼ばれるまでじっとしているマリアを比較すると、主のことばをじっと待っているマリアの方が成熟している、大人である。十次は、社会事業家としての道を歩んでいくことになるので、医者の資格を取らないでもよかったのかもしれない。しかし医者になっていればそれは孤児院を経営するためにけして無駄にはならなかったろう。むしろ孤児たちのために非常に役立ったろうと思う。少なくともこの頃の十次は、あまりにもジョージ・ミュラーを真似ようとしすぎたのではないだろうか。ミュラーは十次にとって信仰の模範以上、偶像のようになってしまっていたのではないだろうか。後年十次は、ミュラーを模倣しすぎた自分を批判しているが、十次には十次の生き方、十次なりの孤児院経営があるので、ミュラーを真似ていればそれでよいのではなく、自分なりの事業の展開を探っていかなければならないのである。彼はミュラーを模倣しながら孤児院を始めていくのだが、しだいにミュラー主義ではやっていけない現実にぶつかる。その現実はなにかというと、ジョージ・ミュラーはジョージ・ミュラーであり、石井十次は石井十次であるという当然の現実であった。主なる神は、十次をジョージ・ミュラーとしてではなく、石井十次として導こうとしているという至極当然のことである。つまり十次はジョージ・ミュラーというすばらしい信仰者であり社会事業家と出会い、神を信じて生きるとはどういうことであるかを本当に知った。だから彼はミュラーのように生きようとした。しかし十次はミュラーに従うのではなく、主なる神に従うべきである。ところが彼は、なんとかしてジョージ・ミュラーのように生きようとする。そして後年になってようやくミュラー主義ではやっていけない、ミュラーを真似しすぎたと分かるのである。大切なことは、すばらしい人を絶対視し、そのように生きようとがんばることではなく、主なる神を仰ぎ見ることだけである。

 

5.十次が医学書を焼却して、本格的に孤児院に取り組んでいくとき、十次が描いていた理想の孤児院は、ジョージ・ミュラーのように、神に従い神に養ってもらうことであった。つまりそれは現実には、孤児院に理解あるキリスト者からの自由な献金によって、孤児院のすべてが満たされていく、借金もなしで孤児院が順調に発展していく、それが十次が心に描いていたものだったろう。孤児院は順調に活動を拡大し、孤児たちの数は増え続け、一八九一年の濃尾大震災、一九〇六年の東北地方の大凶作などで、一時は千二百人もの孤児を受け入れた時期もあった。十次は、日本のジョージ・ミュラーと呼ばれた。まさにジョージ・ミュラーに匹敵するほどの働きであり、英国と日本という慈善に対する文化の違いを考えれば、ジョージ・ミュラー以上のことをなし遂げたと言っても過言ではない。しかし現実は理想とは違っていた。借金をせずにやっていこうとしているのに、孤児院の規模が大きくなればなるほど、借金はかさんでいく。内外のキリスト者からの自由な献金でやっていこうとしていたのに、実際には岡山の実業家で大金持ちの大原家に経済的には依存するようになる。また皇室からの下賜金もいただくようになる。キリスト者から支えられていくはずだったのに、様々な世俗の力が孤児院を支えていくようになる。

 ここで、どうして十次が孤児院を始めることになったのか、その経緯をたどってみると、十次には孤児を救済しようという社会事業家としての使命があったわけではなく、彼がたまたま貧しい巡礼の親子と出会い、その子どもを引き取って教育を授けようということから始まったのである。十次は当時まだ独立した生活を営んでいない医学生の身でありながら、貧しい子どもと関わり合い、助けてあげざるを得なくなってしまったのである。孤児がいたら救ってあげたいと思っていたのではなく、偶然そういう子どもと出会ったということは、孤児だったり、貧困のために生きていけないような子どもたちが大勢いたわけで、孤児院を開いてそういう子どもを集めたら、孤児の数がどんどん増えて千二百人になってしまう。孤児院の事業が順調に発展していくというのは、孤児が大勢いるということで、社会にとっては困ったことで、本当はそういう子どもたちがいない社会が望ましい。ところが親に育ててもらうことのできない多くの子どもたちがいる。これは個人の問題を越えている。つまり社会の常識から外れた親で、子どもを捨ててしまうとか、運悪く病弱で、子どもを残して死んでしまうとか、そういう個人の問題だけではなくて、実はそれ以上に社会の問題、国の問題という側面が大きいから、多くの孤児たちが生み出されたのではないだろうか。当時の日本は産業革命の時代で、国の経済政策の結果として貧困層が生じたのであるなら、それは日本の政治の問題である。また大震災とか大凶作の結果孤児が生み出されているなら、それは日本の社会が対応していくべき問題である。つまり孤児の問題は個人の問題というより、政治や社会や国に責任があるのではないだろうか。たまたま運の悪いことに孤児が出てきてしまったというのなら、慈善事業として個人の善意で問題は解決するかもしれない。しかし国や社会に責任があるのなら、問題の解決は国がなすべきである。つまり十次は孤児院の経営を、ジョージ・ミュラーにならって、信仰によって神に解決していただこうとした。しかしそれは神の責任ではなく、国の責任なのだから、国は頬被りをし続けることは許されない。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ 6:7

人が蒔いたものを神に刈り取らせていいのだろうか。国に責任がある問題ならば、国がその問題を解決すべきである。つまり孤児を養い育てるのは、個人の善意に懸かっているのではなく、国が福祉の制度を作り上げて解決すべきである。十次には、孤児院を経営するための二つのまったく異なる理念があった。一つは、ジョージ・ミュラーのように、信仰の証しとして神の業として孤児院の事業を行う。他は、社会の責任として社会や国がその責任を担っていく。もし後者の立場に立つなら、国や社会に準ずる立場の皇室や大企業が国に変わってこれに関わり、経済的にこれを支えていくのは当然ではないだろうか。

 十次は、多忙な孤児院の経営に携わりながら、ある時は福音宣教を志したり、またあるときは政治家をを志したという。これは、十次のおかれていた当時の状況が、社会福祉の転換点で、慈善なのか社会福祉なのか、宗教事業なのか国家の政策なのか、その狭間にいたのが十次なのである。十次が複雑で、一貫していないのは、矛盾する二つの立場を彼がとっていたからではないだろうか。福音の伝道者として、神にのみ従いたいと願いながら、政治家としてこの国の制度を変えていきたいと願う。十次はそういう矛盾した生き方をせざるを得なかった。十次は、その信仰によってただ神に信頼して岡山孤児院という日本における最大級の孤児院を建てたのだが、しかしそのような施設は、神ではなく、国が行うべきものであった。岡山孤児院は、留岡幸助など多くのキリスト者の反対にもかかわらず、十次の死後十年(一九二六年)で解散してしまう。それは、岡山孤児院そのものが、十次の抱えていた矛盾を抱え続けていたためではなかったろうか。彼の生涯は、社会的には成功だったかもしれない。しかし彼の抱いていた理想からは、失敗であったが、その失敗は、無駄な失敗ではけしてなかった。無一文の男が、日本で最大級の福祉事業を、その信仰によってなしとげたのである。しかし福祉が慈善としてではなく、神の証しとして宗教事業として行われるべきものではなく、国や社会の責任として行われるべきものであるという時代においては、信仰でやりとげられた十次の事業は、矛盾を抱え続けていたのである。しかし実はキリスト者はだれでも矛盾を抱えて生きている。それは霊と肉の問題である。具体的に言えば、教会(集会)生活と日常生活の矛盾、仕事と信仰とか、未信者の家族への対応とか、家庭や結婚の問題もある。しかしそうした矛盾を抱え悩みながら、否、だからこそ真剣に祈り、自分にできる限りのことをして、最善を尽くしていくのである。十次は、自分の抱えている矛盾を乗り越えようとして、「慈善の経営にも信じて祈り、祈って働くことが必要である」と記した。信じて祈るだけではなく、祈りつつ働くことが必要である。神の力を求めながら、しかし自分にできる最善をなしていかなければならない。ここにこそキリスト者の抱える矛盾を克服する道がある。罪からわたしを守ってくださいと祈るだけでなく、そう祈りつつ罪から離れようとするとき、そこに神が働く。祈りつつ働き、主を仰ぎ見つつできる限りのことをなしていくことによって、主に導かれて生きるのである。十次の生涯は、矛盾を抱えているからこそ、祈りつつ働く生涯だったのだろう。これこそ祝福である。十次の生涯が成功した生涯だったのは、孤児院の働きが社会に認められたからではない。もしそれが成功であるとしたなら、むなしい成功である。なぜなら彼の死後わずか十年あまりで、彼の起こした事業のほとんどは失われてしまうのである。彼の生涯の成功は、彼の起こした事業がたとえむなしい結果に終わるとしても、祈って働いた生涯だったからではないだろうか。石井十次は、生涯主を仰ぎ見続けたのである。そこから私たちは今なお十次から多くのことを学ぶのである。

 

 

   U   渡辺亀吉

 

 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。    ヨハネの福音書 14:18

 

1.石井十次が孤児のために働く決心をしたとき、医者になることを断念し、医学書を焼き払ったのだが、彼にそのような行動をとらせたのは、ジョージ・ミュラーの影響が大であったのだが、ジョージ・ミュラーの他に大きな影響を与えた人物がいた。それが渡辺亀吉である。亀吉は一八五七年(安政四年)生まれであるから、一八六五年生まれの十次より8歳年上である。父親は職人で、生計は豊であったらしい。ところが酒と賭博で財産を失い、亀吉が六歳の時母が家出し翌年亡くなってしまう。その一年あまり後、父は亀吉を残し行方不明になってしまう。つまり亀吉は孤児となったのである。孤児となった亀吉は、叔父に引き取られるが追い出され、盗みをはたらく子どもたちの群れに加わり、盗みを続け、入獄を繰り返し、一九歳の時懲役十年の刑を受けることになった。その時になって亀吉は、出獄することになったら、盗みはやめて働こう、そのために必要なのは読み書きそろばんだと、必死になって勉強を始めたのである。彼の勉強を見たのがキリスト者であったことから福音に触れ救われるのである。出獄してから、神戸教会で受洗し、教誨師原胤明に引き取られることになる。原胤明は、自分が入獄した経験があって、監獄の悲惨な状況を身をもって知っていたがゆえに、監獄を改良することを訴え、また教誨師としてだけではなく、出獄人保護事業を始めたのだが、それは良くならない罪人はいないという信念からであった。そして実は彼の始めた出獄人保護事業の第一号が渡辺亀吉だったのである。原は、亀吉を自宅に引き取り、家族の一員として迎え入れ、実子と同様に何の分け隔ても区別もつけなかったのである。亀吉は結婚後妻の姓である渡辺を名乗ったのであるが、当時は大和亀吉と称していた。なぜ大和だったのかというと、自分の名前も知らず、大和の国の生まれだから大和亀吉と称していたのである。強盗十数犯の前科者で、監獄では大和無宿とかチビ亀と呼ばれていて、その風貌は体の半分が曲がらずチンバで片目の醜男であった。普通なら気味悪くて近づけないような男を、原の家族は受け入れたのである。とくに原の妻は、優しく彼に接し、家からお金をくすねられてもなんの小言も言わないどころか、小遣いに不自由しているだろうと小金をあげたりしたのである。こうしてチビ亀こと渡辺亀吉は、わずか六歳までしか経験しなかった母親の愛を受けたのである。この原胤明のもとでの亀吉の経験は、石井十次の孤児事業にとって大きな意味を持っていたのではないかと思う。十次は、一九〇六年里親を募集し、里子を預けるという里親制度を日本ではじめて行う。それは大きな孤児院では、孤児がなによりも必要としている親の愛を経験できない。それは家庭でこそ経験できることなのだから、家庭でこそ孤児の養育がなされるべきで、孤児院ではだめだ。その帰結が、九州茶臼原に里親村を建設することであった。十次の里親制度の源流には、亀吉の経験があったのではないだろうか。

 

2.十次と亀吉との出会いは、十次が医学書を焼き孤児院に専念する前年、一八八八年、十次が孤児院のための募金のために神戸へ行ったときであった。当時亀吉は神戸監獄で働いていたのだが、低い地位のために薄給であったのも関わらず、監獄を出た少年たちと寝起きを共にしていた。その少年の数は八人もいたという。この亀吉から十次は孤児救済が実に社会的に大きな意味を持っていることに気付かせられるのである。たとえば、孤児院に引き取られることのなかった孤児であった。親がおらず、だれにも世話してもらえない孤児は、どのようにして生きていくのだろうか。それは亀吉を見れば明らかである。彼はどろぼうで、罪を重ねて監獄にはいるのである。当時日本の人口は3千九百万人で、監獄に入っているものは八万で、そのための費用は毎年四〇〇万円かかった。孤児たちを孤児院に入れるなどして、彼らが監獄にはいるような犯罪者でなくなり、監獄に入る犯罪者の数が減少すれば、その費用はもっと社会を豊にするために使える。つまり孤児院の働きは、孤児たちのためだけではなく、日本の国にとっても有益な働きなのである。十次は亀吉との出会いによって孤児院の必要性をはっきりと確信し、その結果翌年医学書を焼却することによって、孤児のために生きる不退転の決意を明らかにするのである。

 十次は、亀吉に岡山孤児院を手伝ってもらいたいと熱望していたようである。亀吉も岡山孤児院に強く惹かれていたようである。しかし十次と働くことは、このときには実現せず、亀吉は松山の刑務所で伝道に携わり、その後北海道で教誨師となった原胤明に呼ばれて、北海道へおもむいた。当時北海道では留岡幸助が教誨師として活動していた。留岡は、後に北海道と東京に今も残る孤児院「家庭学校」を建てた。そして留岡は岡山孤児院とも深い関わりを持つようになっていく。また余談だが、北海道で留岡によって導かれた囚人の一人に好地由太郎がいる。好地由太郎も孤児であった。彼は働いていた店の金を使い込んで逃げ出し、その後女主人の店に雇われることになる。雇われてから幾日もたたないある夜、情欲にかられて女主人に暴行を働こうとして抵抗されたために彼女を殺害し、犯行を隠そうとして店に放火し、殺人と放火で逮捕されるのである。由太郎一八歳、一八八二年のことであった。由太郎は北海道の空知監獄に送られ、そこで彼は聖書を読むようにという夢を不思議なことに一晩に三度も見たのである。彼は文盲だったので、聖書を読むためにまず時を学びはじめ、聖書を読み、救われたのである。そしてここで彼は教誨師である留岡幸助と出会うのである。もし由太郎が、岡山孤児院とか、家庭学校に入って、そこで聖書を学んでいれば、殺人も放火もしなかったろう。孤児を助け、彼らに福音を伝えることは、多くの犯罪を予防することになる。

 

3.一八九一年濃尾大地震が起こる。十次は震災孤児を助けるために亀吉の応援を求めた。亀吉は震災孤児救済に協力するために北海道を去り、まず名古屋で孤児救済の働きに携わった後、岡山孤児院に移った。これでようやく十次は亀吉を岡山孤児院に迎え入れ、念願をはたすことになる。長い間監獄伝道を行ってきた亀吉にとって、岡山での生活はどうだったろうか。亀吉にとって岡山孤児院は、小天国であったという。それはまず第一に、彼自身が、孤児院での働きを願っていたからではないだろうか。若い時代の彼が不幸だったのはなぜだろうか。孤児だったからである。なぜ盗みなど犯罪を犯したのだろうか。孤児だったからである。孤児であるとはどういうことか。だれにも模範を示してもらえず、だれにもどう生きたらよいのか教えてもらえず、だれにも助けてもらえず、それどころかだれも傍らにいない。盗みが悪いことであることさえ分からないまま、生きるために盗まなければならず、悪事を重ねてしまう。その原因のすべては、孤児だったからである。どうやってこの不幸な境遇から抜けだ出すことができたのか。それは彼が孤児ではなかったからである。孤児ではないと分かって幸福な生き方をはじめたのである。イエス・キリストは「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と約束してくださっていたのである。彼が主イエスを知り、主イエスを信じ、主イエスによって新しい人生をはじめたとき、彼はもう孤児ではなかった。彼は主に愛されていた。主は彼の近くに、彼の傍らにおられた。実ははじめからそうだったのに、気付かなかったのである。気付かないまま悪事を重ね、前科十数犯の悪党になった。それにもかかわらず彼が救われたのはなぜなのか。主が彼を捨てて孤児とはしなかったからである。彼がどんなに悪人であっても、主はけして彼を捨てなかったのである。彼はそのことを知らないまま生きてきた。しかし多くのキリスト者の助けが与えられ、福音を教えられ、自ら聖書を学びもし、原胤明の家庭では家族同然の扱いを受け、こうして彼は自分は見捨てられてはいなかった、親が彼を捨てたとしても、けして彼を捨てることのない救い主、主イエスを知ったのである。これが亀吉の原点である。親に捨てられた彼は、世間からは孤児と見なされるのだが、けして孤児ではなかった。主が彼と共にいたからである。しかし彼は長い間、主を知らないまま、大和無宿、宿無し小僧などと呼ばれ、宣教師ベリーによれば、「監獄官吏に鬼か蛇のごとく嫌悪され、その仲間にあって名高かったチビ亀」という強盗・窃盗犯になった。孤児たちのそのような悪の道に入って欲しくない、そうならないように孤児たちを助け、彼らに主を知らせ、主がけして彼らを孤児にはしないと伝えたい、また亀吉が原胤明の家庭で味わった母の愛・父の愛を経験させてあげたい。孤児であるために、家庭や親の愛を知らない子どもたちに、自分たちが親となって知らせてあげることができたらどんなにさいわいだろうか。これが亀吉がなし遂げたいことだったのである。出獄し、原のもとで一時保護された後、神戸監獄に雇われた当時、薄給であるにもかかわらずなんと八人もの出獄したばかりの子どもたちを預かり、起臥を共にしたのである。しかし彼がそれよりもなし遂げたかったことは、まだ罪を犯していない子どもたちのために働くことであった。けして見捨てられていないこと、主はけして彼らを孤児にはしないと伝えたかったのではないだろうか。亀吉は岡山孤児院での日々を「楽しきホームの団らんに、朝は賛美し夕に祈る。われや見るに小天国にあり。」と書いている。岡山孤児院での充実した輝かしい毎日を、亀吉が主を仰ぎ見ながら過ごしていたのである。

 

4.しかしもちろん亀吉は、優しい天使のような穏和な人間になったわけではない。犯罪人だったときの性格を残していたところもあるだろう。非常に短気で、他人の罪を激しく責めている自分は、ちっとも良い人間になっていないと日記に記したのは岡山孤児院の時代であった。自分のそうした昔からの性質が子どもたちに伝わるのではないか、また自分が短気になるから妻も短気になるのだ、「主の寛容を学ばしめたまえ。」と書いている。ここに表れているのは、かつての犯罪者が、キリスト者になった今もなお、粗暴で手に負えない駄目や奴だというのではなく、まちがいをするやすぐに悔い改める謙虚に生きるキリスト者の姿である。亀吉のこのような生きる態度こそ、すべてのキリスト者の日々の態度、日々の生き方になるべきだろう。ここにキリスト者の生き方のひとつの模範がある。私たちはしばしば彼のように自分の失敗や悪癖を素直に認めようとしない。しかしかつての重窃盗犯前科十数犯のチビ亀こと渡辺亀吉は、主からのすばらしい恵みを受けていながら、自分はちっとも良くなっていない、「主の寛容を学ばしめたまえ。」と祈り続ける。彼はかつては犯罪人であったが、今は義に輝く者になりたいという激しい求めである。新しくされて、主に似た者になりたい、だから悔い改め続けようとする。これこそキリスト者としての生き方だろう。自分じしんには良いものがない、だから主を絶えず仰ぎ続けようとする。

 しかしこのような岡山孤児院での日々は長くは続かなかった。幼いときの過酷な生活のためだろうか、彼は健康ではなかった。一八九六年、わずか四年あまりの岡山での働きの後天に召されたのである。しかし渡辺亀吉は、その四〇年に満たない生涯のすべてを通して、主を証ししたのである。

 

参考文献:柴田善守「石井十次の生涯と思想」 春秋社

     同志社大学人文科学研究所編「石井十次の研究」 同朋舎